ネット・ゲーム依存症対策条例 賛成派の主張
論破せよ!
香川県ネット・ゲーム依存症対策条例
賛成派の主張
要旨
条例賛成派には、病理としての依存症を懸念する声は無い。
本音は、条例を根拠に、子どもをシツケたいだけだ。
多くの親が望んでいるのは、依存症の専門医ではなく、家庭内教育を充実させるための施策だ。
以下、本文
これは香川県ネット・ゲーム依存症対策条例に関する記事です。
条例賛成派は2個のタイプに分かれるようだ。
一方は、条例を推進した議員たち
他方は、その議員を支持する人達
ここでは、議員を支持する人達について論じる。
条例に賛成する人達の意見は、パブコメの賛成の欄に記載されている。じっくり読もう。
私なりに、私の魂に賛成派を降臨させた場合、次のような主張をするだろう。
- 条例なのだから、多くの人たちが議論に参加しており、ほぼほぼ正しいに決まっているし、内容が悪いわけがない。
- 1日60分しかゲームをさせないことにより、発育の遅れや、人格形成のユガミが生じるわけが無い。
- 長時間ゲームをさせたことにより、何か優れた能力が身に付くわけがない。
- 子どもの教育に責任を持たないから、何時間もゲームをすることを認めるような主張をするのだ。
- 親だからといって科学的知見の全てを正確に理解できるわけがないので、何か指針があって、ある程度納得すれば、それに従えば良い。
- 1日60分制限は、日常生活上は問題無いし、むしろそれで家族内の日常はうまくいく。夜遅くまで起きていられると、家族として迷惑である。
- 普通に考えて、子どもが何時間もゲームをやっていれば、親としては「なんか変だな」って思うだろ。
- 時間制限をするための、権威のある指針があれば良い。家庭内での規律の確立を重視する。
パブコメには、条例賛成派の複数の意見があるが、(まるで同一人物が書いたかのように)論調は1個だけだ。それを代表するのが次の意見だ。
06 家庭内規制に苦労している。行政が規制を設けてくれれば、堂々と「香川県の子どもはだめという決まりがある」と言うことができる。親としてこれほど心強いものはない。
つまり、「子どものシツケに苦労しているので、そこんとこ、ジョウレイでよろしく!」ってことだ。
病理としての依存症を懸念する声は無い。
身近に、依存症に罹患する者がいないためだろう。
でも、本条例は、病理としての依存症への対策なんですよね。
賛成派は、シツケの対策だけを要望しているのであって、病理への対策までを望んでいるのではない。
ゆえに、依存症対策を目的とする本条例の趣旨への賛成を唱えたものではない。
つまり、賛成派は「香川県シツケ条例」であっても良いのだ。
ただし、それだと、子どものシツケ程度のことを条例で定めなければならないほど、大人の指導力が無いようにみえる。
なので、見栄えを良くするため、依存症を防止するってことにしているように見える。
でも、パブコメの意見にあるように、本音は、シツケなんだよね。
子どもを相手に「条例で決まっているから」と説明するのですか?
「世の中の様々なことを学んだ方が良いから。子どものときに運動能力を伸ばしておいた方が良いから」というのが説明になると思う。
そうすると、その次に出て来るのが、他の学習コンテンツであったり、スポーツであったりを提供することになる。
規制だと、まさに規制だけであり、その後のアクションが出てこない。
何をすることが望ましいのか、という発想が大人側に無いため、行動を制限する発想しか生まれず、可能性を発展させる提案ができないのだ。
ただ、この教育の部分は、確かに、全ての大人に備わっている能力ではないので、専門家に委ねなければならない部分もあるのだが、それは少なくとも依存症専門医などではない。
多くの親が望んでいるのは、依存症の専門医ではなく、家庭内の一般的な教育を充実させるための専門関連施策なのだ。
核家族化が進行した。子育てなどの家族機能は縮小している。親は孤立し、誰にも相談できない。
ゲーム依存症対策を一般に広く普及するのではなく、一般家庭における家族機能の補填に政策の軸足を置くべきである。ゲーム依存症は、医療の政策として扱うのが妥当である。
「家族機能の補填」とは、小中学生向けの居場所サービスや、親同士又は教育者との交流など親を孤立させない施策が期待される。
条例は社会の人々を制度として規制・制限することを主たる目的とする手段である。教育のような人間の可能性を発展させる事柄には(条例ではない)他の手段を講じるべきである。
県議会議員は、条例という手段の長所・短所などの特徴を正確に理解する必要があるし、県民の要望の真の意図を見抜くようにしていただきたい。県民からの要望であるからと言って、その言葉を額面通りに受け取るのはやめていただきたい。
子どものシツケの問題を、依存症問題に関係させて、要望し・解決しようとすることは不当である。
前の記事:手段としての妥当性
次の記事:パブコメの暗闇